インビシブルマンズデスベッド

インビシブルマンズデスベッド

1999年
インビシブルマンズデスベッド決起

2000年
高円寺、下北沢、渋谷のライブハウスを中心に活動。暴動的なライブパフォーマンスで幾つかのライブハウスを出入り禁止になる。

2001年
過激なライブが業界で話題を呼び、インディーズながら巨大プロモーションでレコードデビュー。
自主企画『深夜、地下360メートルにて』をスタートさせる。
フジテレビ「FACTROY」などの音楽番組にも出演し、お茶の間を震撼させる。

2002年
大型フェスなどに多数出演。
ルーキーステージの出演となったFUJI ROCK FESTIVALではハイエースでステージに突っ込み、さらにステージオブジェを勝手に解体するパフォーマンスで会場を大いに沸かせる(のちに関係者が謝罪)。このとき会場には、ジョー・ストラマーやジャック・ホワイトらがライブを見て大笑いしていたという逸話も。

2003年
イラク戦争勃発時にアメリカツアーを敢行。時制的なこともあり、行き帰りの飛行機はバンドメンバーのみの貸し切り状態。ライブは大盛況を収める。
(気難しいことで有名なCBGBのスタッフが大いに喜び、「お前らのファンだ」とのちに連絡をくれる)

2004年
BRAHMANのツアーに同行。この頃から対バンがジャンルレスになり、パンク、ハードコアにとどまらず、ヴィジュアル系、アイドル、芸人、ノイズなど現在の音楽業界を予見したかのように活動範囲を広げる。

2005年
バンド史上最大の問題作「寄生虫」を発売。
「寄生虫」と書かれた巨大看板をメンバーが掲げ、渋谷、原宿、新宿で何ヶ月にも及ぶゲリラプロモーション。
NHKの天気予報に偶然、映り込み話題に。最終的に渋谷署に看板を没収されてプロモーション終了。
バンドは全国ツアーへ。
ツアーファイナルは新宿ロフト。のちにライブ盤『歌舞伎町パラサイト』として発売。

2006年
草月会館・草月ホール単独公演にて活動休止。その後、解散。

2007年~2014年
メンバーはHEREとして活動開始(ベース西井はのちに脱退し、布袋寅泰氏や清春氏のサポートミュージシャンとして活動)。
HEREの活動中に、アルカラ、9mm parabellum bullet、凛として時雨、mudy on the 昨晩ら気鋭のバンドたちからインビシブルマンズデスベッドの楽曲の高さを評価され、メンバーは苦笑いを浮かべる時期が続く。

2015年
アルカラ稲村太祐氏の熱烈なアプローチにより、アルカラのツアーファイナルであるキネマ倶楽部で一夜限りの不完全復活を行う(このときはドラムの宮野が不在)。

2016年
前年のキネマ倶楽部のライブを見た業界各所の隠れインビシブルマンズデスベッドファンから復活の声が多数届き始める。
それと同時に、デスベッド=尾形回帰が封印していたインビシブルマンズデスベッドの曲作りの方法を思い出す。
さまざまな要因が重なり、デスベッド、武田将幸、西井慶太、宮野大介のオリジナルメンバーが揃った状態で、ホットスタッフ主催「ルビーチューズデー」に怒髪天、9mm parabellum bulletと共に出演。赤坂ブリッツを震撼させる。
9月、デスベッドがインビシブルマンズデスベッドの完全復活を宣言。下北沢クラブ251にて『深夜、地下360メートルにて』ワンマン公演を開催。

2017年
まさかの新作発表。